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会津若松城 またの名を 鶴ヶ城

会津若松駅から10分位車を走らせたところに、会津若松城があります。鶴ヶ城は、約600年の歴史があり、7家の歴代藩主を経て、この会津を見守っていた高さ36mお城であります。
藩主で有名どころは、伊達政宗や松平家でしょうか!特に今回感じたいのは、白虎隊の悲運な話などなど。幕末の時期。
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↓東側より入る戦略的な橋。敵兵が押し寄せてきたら、橋を切り落とせるようです。
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↓美しく雄大な、日本建築もすてたもんではない。雪がつもった城も芸術的になりそうです。
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現在の会津若松城は復元です。中は写真はとれませんが、天守閣から撮影できました。城の中に、藩主の一日みたいのもあり、なかなか忙しい毎日だったようです。


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↑自画自賛
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戊辰戦争の時、会津は孤立し山に囲まれている為、16ある峠をすべて守らなければならなかったが、新政府軍の武器、多勢におされ敗走せざるえなく、新撰組の土方・齋藤一もあえなく敗走し、土方は援軍を求め会津を離れています。一方の齋藤一は会津に残り戦います。齋藤さんの語り『いま落城しようとしているのをみて、会津を捨てるのは正義ではない、私は新撰組の隊名とともに、ここで死ぬつもりだ』

会津の人達は性格が真面目で品格があり、忠義を守ることが、どの藩よりも強い気がします。武士以外の百姓・農民も女性も会津を守ろうと戦って、多くの犠牲をだしました。白虎隊、西郷家、の悲運の話も、胸がいたくなります。

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当時の写真。最後は一ヶ月間 篭城戦になり、一日2000発の大砲がうたれ、城がぼろぼろです。

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当時の藩主松平容保(28歳位)。新撰組、白虎隊の名付けの親。京都守護職という大変な悪いくじも、会津の誇りと家訓の為、引き受けてしまうほどの生真面目。


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左の鉄門のところで、松平容保は指揮をとっていました。
今でこそ戦争はノーですが、当時の会津は賊軍の汚名を無理やりきせられ、戦う道しかなかった状況におかれていました。会津の誇りだけを胸に戦っていたような気がします。本当の正義は会津にあります。今からたったの150年前の話ですが、会津の精神は惹きつけるものがありました。

んー文面て難しい
言いたいことが6割くらいしかいえてない。
そーだとしても
この機能はいい。

by nishidaiku | 2007-02-08 00:08 | 日本の城
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わたくしのお気に♪


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