カテゴリ:幕末とか歴史( 17 )


日本を洗濯いたし候

今年も後一カ月。一年があっという間に感じます。
ようやく今年の大河ドラマ【天地人】も終わりました。戦国時代ということもあり、興味がなく全然見ない大河ドラマでした。

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でも来年は違う。

時代は幕末。坂本竜馬!!
【竜馬伝】


隠れ福山ファンも重なり、来年の大河ドラマが待ち遠しい♪
来年は高知とか長崎・京都などなど観光客が増えるだろうな~

【竜馬語録】
人の世に道はひとつということはない。道は百も千も万もある。

おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。

地球を動かしているのは、思想ではなく経済だ。
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by nishidaiku | 2009-12-03 23:18 | 幕末とか歴史

東京 靖国神社

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 以前に行った人生初、靖国神社。
参道に大村益次郎の銅像がありました。明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策したひと。
 上野戦争で新政府軍指揮官をとっていたひと。この上野戦争で旧幕府軍彰義隊の中に新撰組副長助勤 原田左之助も参加していたと言われています。


この人の好きな言葉。
【常識を発達させよ 見聞を広くしなければならぬ 小さな考えでは世に立てぬ】
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by nishidaiku | 2009-04-30 00:02 | 幕末とか歴史

小松 帯刀

 口に含むと、芋らしい落ち着きのある香りと柔らかな甘味が感じられると共に、軽快ですっきりした味わいが特長の焼酎です。ネットで調べましたが、品切れ状態でした。
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 思わず店で出あった時は、このお方のお酒があるのかと感動してしまい、滅多に飲まない焼酎に酔いました。というより、小松帯刀に酔いました♪
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 ↑ 薩摩藩城代家老。慶応二年(1866)京都の小松屋敷で 坂本竜馬・小松帯刀立会いのもとに西郷隆盛と木戸孝充の間で薩長同盟を成立させるなど、明治政府の誕生に 大きな力を発揮したお侍さんです。
 日本初めての新婚旅行は、坂本竜馬と言われていますが、実際には小松帯刀の方が、10年もはやく新婚旅行にいってる記録が残っていたり、愛妻家でもあったようです。
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by nishidaiku | 2009-02-04 23:24 | 幕末とか歴史

天璋院 篤姫          

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 毎週かかさず見ている大河ドラマ。ここ最近思わず涙ぐんでしまうシーンの連続です。ちょうど両国にある江戸東京博物館で、篤姫展をやっているので見てきました。新撰組展以来2度目です。見物人が多いのでとてもゆっくり見物みれる状況ではありませんので、500円で音声ガイド借りて成功でした♪
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by nishidaiku | 2008-03-24 22:13 | 幕末とか歴史

ならぬものは、ならぬものです。

今の教育にこそ、必要であるものもあれば、そうでないものもありますが、学ぶということは大事なことだということです。

白虎隊は明治維新という大きな 時代のながれの中で、ふるさと、会津をまもるという、純粋な気持ちで戦場におもむいた、16、17歳の少年たちの悲劇が今に伝えられているものです。

会津藩士の子供は、10才になると「日新館」への入学が義務づけられ、その以前、6才頃から子供達には藩士としての心得が繰り返し教え込まれました。それが有名な「什の掟」です。

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人(女性)と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬものはならぬものです。

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(日新館の門です、生徒はこの門は通れず、裏の門から入ったそうです。藩主のみが通れたみたいです)

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1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで
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戦争がはじまると、学校はとざされたので、毎日生徒たちは調練場ではげしい、訓練をつづけていました。

  けれども、新政府軍が国境に迫ると聞いては、さすがに少年たちもじっとしていることができません。自分たちの生まれ育ったこの美しい会津の土地を戦火にあらされないように、自分たちの手で守りぬこうと出陣の嘆願書を軍事奉行である家老の萱野権兵衛にさしだしてお願いをしました。
 
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(新堀の洞門)

戦いの中敗走して、新政府軍をさけながら新堀の洞門をくぐりぬけ、やっとのことで飯盛山の中腹にある、厳島神社の境内までたどりつきました。
 
城の方からはさかんに砲声がきこえてきます。少年達は疲れた足をひきずりながら、新堀に沿って歩きました。しばらくいくと、飯盛山の中腹に松林があって、みはらしのきく場所をみつけたので少年たちは新堀をわたってそこによじのぼりました。

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(19人の少年達が、この場所で短い生涯を終えました・・・) 

 体験したことのない凄まじい戦闘と、敗走、睡眠不足と少年たちは疲れ切っていました。
 そして、高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、五層の天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているようにみえました。また、ほんど火の海となった城下からは、絶え間なく砲声と銃声がとどろいています。
 少年たちは予想もしなかった この光景に思わず息をのみました。命とたのむ鶴ヶ城も もはや、落城の運命かと思うと全身の力が一度に抜けていってしまうような悲しさが、少年たちの胸にこみ上げてきました。
 
「城を枕に討ち死にするつもりでここまできたが、もうお城へ入ることはできない。すべてはおわったのだ。」
 一人がこういってがっくり首をたれました。
すると傷ついた一人がいいました。
「このままぐずぐずしていれば、敵の手にかかって後の世までも恥じをさらすようなことになるぞ」
「そうだ、最後まで会津の武士らしく、いさぎよく、みんなここで切腹しよう。」
 こうして、少年たちは、遥かにお城をのぞむといずまいをただし一礼してから自刃しました。

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このような事を学ぶと、死という事を考えさせられます。
会っていない友達などは元気にしているのかとか、そうゆうしみじみ考えられる時間をつくってくれます。
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by nishidaiku | 2007-04-24 22:24 | 幕末とか歴史

新撰組巡り 会津

再び福島の新撰組巡り。
会津城から30~40分歩いたところに、近藤勇のお墓の案内をみつけました。
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1868年、新政府軍に千葉の流山で捕らえられた近藤勇。まるで罪人のような、最後のとなった近藤勇の墓石がここにある。墓石をつくったのが、宇都宮で処刑の話を聞いた、土方歳三と言われています。当時は罪人扱いだった、近藤勇のお墓は人里離れた東山の山中にありました。
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【貫天院殿純忠誠義大居士】という戒名でした。意味はわかりませんが、忠義との間に誠という字がなんともいえない感じでした。忠義と誠は新撰組と代名詞でした。
私のおじいさんも忠義(名前)でした。

私は『今じゃ名誉も回復されました」と言い残しここをあとにしました。

それから宇都宮の戦いで負傷した傷を癒した土方歳三。
会津若松城から車で10分 東山温泉。
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昔ながらの建物と、川のせせらぎがよい風景でした。温泉もかけながしで最高です。
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最後に新撰組 3番隊長 齋藤 一のお墓に行く。会津若松駅から15分
会津に残り、会津人として生き抜いた齋藤一。本当は会津人だったのでは?
1877年には西南戦争に警察官として出陣。
1915年布団の上で正座したまま、息を引き取ったと伝えられるのも、齋藤さんらしい生涯の幕切れだと思います。

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by nishidaiku | 2007-03-09 22:26 | 幕末とか歴史

会津戦争のその後

会津城から少し歩いたところに、会津戦争の終結場所がありました。
一ヶ月篭城したあと、降参旗をかかげて、会津の敗北となりました。この場所で会津藩主 松平容保が降伏書に調印した場所でした。

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後に会津の人たちは極寒の青森移住命令がでて、厳しい日々をすごしたそうです。それから数年たって、命令もとかれ会津に戻る人もいれば、他に行く人もいたそうです。

一方会津藩主 松平容保は鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居いました。容保はそれからまもなく蟄居を許され、日光東照宮の宮司となりました。享年59。禁門の変での働きを孝明天皇から認められ賜った物を、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また幕末維新については周囲に何も語ることはなかったようです。

昭和に入り、松平家親族と皇族が結婚して、朝敵の汚名がきせられた、会津藩の名誉が挽回されたことを意味してたんじゃないですかね。
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by nishidaiku | 2007-02-08 22:35 | 幕末とか歴史

会津若松

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福島の会津若松を訪れました。車で都心から5時間のらりくらりとやってきました。

会津は新撰組もゆかりの地でいつかいきたいとは思っていましたがなかなかいけずジマイ。白虎隊のドラマをやっていたのですが、会津の人達の生き様とまっすぐな人間に、私は感動し、我ながらはずかしいのですが、思わず涙してしまい。泣 これは行くしかないだろと行って来ました。会津の歴史と街を肌で感じに。

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会津藩の旗印
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by nishidaiku | 2007-02-04 21:44 | 幕末とか歴史

日光東照宮

土曜日大工学校の行事に参加しました。朝7時出発の日帰り弾丸ツアーみたいなカンジでした。しかも昼飯はバスの中で弁当ですよ!ほっかべん!オイ!
日光東照宮を訪ずれるのは、久々!8年ぶり3回目といったところであります。小学生の修学旅行時は、興味なかったので、あまり記憶はありません。夜中廊下で正座させられた記憶はあります。
今回は日光ちょっと色々深入りしてみたいと思います。

ちなみに日光東照宮は1999年に世界遺産に認定されています。

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そもそも日光東照宮とは何?ってカンジですが、2代将軍秀忠が徳川家康を奉祀し造った神社であります。至るところに、徳川の家紋が入っています。

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雨がやみ、霧がたちこめて、いい感じになってきました。当時8兆円近くかけて、日本全国の腕利きの大工を400万に集め、わずか1年でつくったそうな・・・!驚きです!
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東照宮の中には、彫刻が多くあるのは有名ですが、特に有名なのはこの猿ですね。
【見ざる・言わざる・聞かざる】実はこの彫刻、意味があることを知りませんでした。この3匹の猿以外に、合計16匹の猿がいます。徳川家康が人生をまとめるとこんな流れであると!

①手をかざした母猿が小猿の将来を見ている。小猿は信頼して母猿の顔を覗いている
②子供の時は、悪いことを『見ざる・言わざる・聞かざる』が良い
③一人立ち直前の猿。
④大きな志を抱いて天を仰いでいる。
⑤人生の崖っぷちに立っているが、仲間を励ます猿。
⑥恋に悩み、もの思いにふける男女の猿。
⑦結婚した二人の猿で、『人生の荒波』が彫られ、力を合わせて、のりこえようとする猿。
⑧妊娠した猿。子供も大きくなりやがて親となる。

また①に戻る

この様な意味があるそうです。写真が無いので、行ったときにぜひ注意深く見ては。

ちなみに『眠り猫は』この弾丸ツアーには、含まれておらず・・・ここまできたのに!
眠り猫の意味は、『猫が眠っていられるくらい、平和である』という象徴みたい。他にも色々彫刻があるが、すべてに意味があるようです。短時間ではわかりませんでした。

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何度も書きますが、神秘的です。
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↑そもそも何故江戸幕府だった、家康が日光なのかというと、家康の遺言で、『死後1年たったら日光に埋葬するようにと・・・』つまり、関東平野が見渡せるのが、日光ということです。そしてこの鳥居の先が本殿です。そして写真の背後が、江戸を指しています。方角や風水も調べて建設されたようです。
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本殿であります。
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↑あっ!あんなところにも、徳川の家紋が!

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話は幕末になりますが、京都守護職として新撰組などを率いた、会津藩主 松平容保は、明治13年にこの日光東照宮の宮司となっています。
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最後に徳川家康のまめ知識!

忍者は 鳥波 透波 軒猿 伊賀 甲賀 風間 と日本各地に忍者部隊がおりました。特に徳川家康は、伊賀忍者を使ったそうです。家康の下で、伊賀忍者を率いていたのは、服部半蔵であります。手柄のおかげで、八千石の旗本の役を与えられ、江戸城西門外に屋敷を構えました。そしてその場所は、今も半蔵門前という名前でよばれているそうな! 
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by nishidaiku | 2006-09-18 23:35 | 幕末とか歴史

新撰組屯所【前川邸】

京都の端にある壬生村。新撰組は隊士が増えてくると、八木邸だけでは手狭になり、八木家の向かいにある前川邸を強引に借用する。八木家よりも大きい前川邸では、土方歳三が中心になって剣術の稽古を行っています。
芹沢鴨暗殺後、ただ一人暗殺から逃れた野口健司も、なんらかの理由で切腹することになります。大河ドラマでは野口は殺さず、逃がす演出になってますが、実際は切腹となっています。屯所での最初の切腹者は野口健司です。
隊士の林信太郎は「さすが野口さんだ、ご立派な最後でした・・・。」と語り残しています。介錯人の安藤早太郎はそのあとすぐに、平気な顔して八木家の餅つきを手伝ったということで、みな驚いた逸話も残っているそうです。
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新撰組内部の厳しさも続いていきます。新撰組ナンバー2の山南さんも脱走します。親切者は山南か松原といわれるくらい、やさしい心の持ち主です。そのやさしさが新撰組と別れる原因となったのでしょう。そして前川邸で近藤から切腹を命ぜられます。山南は意外な落ち着いた態度で、「切腹を命ぜられて、ありがたき幸せに存ずる」と答えた。同日夕刻腹を切った。「浅野内匠頭でも、こう見事には相果てまい」と近藤をいわしめたほど、見事な最後だった。
死の間際に恋人の明里が最後の別れをした、西の出窓は残っていません。

切腹なんてと思いますが、まだ150年程前の話。ただただ驚きと複雑な思い。
山南さんが死んでから、微妙に新撰組が傾きかけていくのは間違いないと思います。
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by nishidaiku | 2006-08-29 23:59 | 幕末とか歴史
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わたくしのお気に♪


by nishidaiku
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