カテゴリ:幕末とか歴史( 17 )


新撰組ご用達のお店 【角屋】

 新撰組屯所から15分位歩いたところに、島原と呼ばれている場所があります。地名が島原というのではなく、島原の前身である六条三筋町から現在地の朱雀野に移され、その移転騒動が九州の島原に似ている事からきているそうです。


↓これが島原の角屋に通ずる門であります。今も当時の雰囲気・形を残しています。新撰組隊士もここを通ったのでしょう。
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↓門から少し歩いた所に角屋があります。コレが角屋の表構え。古き良き時代の建物ですね。
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↓コレが角屋の入り口。角屋は今でゆう料亭みたいの所。新撰組以外にも、西郷隆盛、坂本竜馬なども利用したそうです。

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↓入ったら【刀掛】があり、サムライは刀をここに置いて、奥座敷にすすみます。当時ならではですな。
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↓発足当時新撰組は、筆頭局長として芹沢鴨がトップでした。この人は酒豪で酔うと暴力的になってしまいます。この角屋でも大暴れしています。角屋に対して7日間の閉店を申し付けてます。こうした悪行に手を上げた、会津藩は、近藤勇等になんとかしろと話します。そして芹沢暗殺が計画されます。剣の使い手の芹沢を倒すには、酔わせるしかないということで、会議終了の後、大宴会になるのがこの部屋です。大河ドラマの芹沢鴨の暗殺シーン、三谷さんの演出は見事でした。
 部屋から見る庭はとてもきれいに手入れがされ、これぞ日本の庭ですね。
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↓この日土方は饒舌で、しきりに芹沢に酒をすすめたそうです。それから八木邸に寝込みを襲ったのが、土方歳三・山南敬助・沖田総司・原田左之助の4人といわれています。
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↓柱に刀傷も残ってました。酔っ払った隊士がやったのでしょう。
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by nishidaiku | 2006-07-06 23:59 | 幕末とか歴史

新撰組の屯所 壬生村

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↑京都の壬生にある八木邸です。ここが新撰組が寝泊りしていたところ、今も当時そのままに残っています。当時この門に『壬生村浪士屯所』と看板を掲げては、沖田総司や原田左ノ助などの若い隊士は、看板をしみじみみて感激したといます。まあー家主の八木さんはかなり迷惑したそうです。今でも当時のまま、建物が残っているので、ファンがよく来ていました。建物は武家屋敷になっていて、鴨居は通常より低くなっています。建物内部の写真はとってはいけなかったのですが、私知らずにばしばし撮っていて、画像があるんですがやはり誠の文字をみると、気が引けるので添付するのはやめました。

ちなみに何で誠の文字を旗に記したかというと、近藤勇・土方などは農民出身で、武士よりも真の武士らしくなるという意味合いを含め、誠の文字を記したそうです。

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↑八木邸の隣接する壬生寺、新撰組はここで訓練をしてました。大河ドラマをやっていた時よりは、幾分ブームはすぎてますが、ファンはここを訪れますね。まだだんだら模様の羽織をきてファンと写真撮影をしていました。ちなみにこの羽織、実際に着ていたのは、一年間くらいしか着られていないようです。派手なので。デザインは忠臣蔵の赤穂浪士のような立派な武士になりたいと思いが込められています。着始めの頃は、庶民にばかにされたようです。今じゃー結構いい値段するのに。ほしーな。


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↑壬生寺の中にある、近藤勇像。

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↑同じく壬生寺にある墓石。芹沢鴨とかありますが、これは隊士の河合きさぶろうの墓石。彼は勘定方という職務についていて、(用は金管理)なんと帳簿の不始末で切腹させられてしまった。江戸末期になると切腹は、腹を切る格好だけで、介錯人がすばやく首を落とすやりかただったのですが、新撰組の場合は本当に腹を切った。きゃーーー武士にとっては名誉の事ですが、今じゃ考えられないっすね。この墓は怒った河合の親族が、腹いせにたてたそうです。ちゃんと手をあわせてきました。
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by nishidaiku | 2006-06-17 19:05 | 幕末とか歴史

新撰組副長

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北海道で旧幕府軍と新政府軍で戦っていたとき、新撰組副長土方歳三の写真を、死ぬ1ヶ月前に、故郷の日野に送るため、新撰組隊士の市村鉄之助にゆだねた。若干16歳の若者に現状の報告と写真を届けさせた。それがこの写真。

今でも通用する美形の顔立ち。当時もめちゃくちゃもてたらしい。京都にいたころ、日野の小島鹿之助宛に、『つまらないものですが、謹んでおおくりします』と添え書きがかかれていたので、何がはいっているのか興味津々で中をあけると、ラブレターの束が入っていたらしい・・・

鬼の副長と呼ばれる所以は、新撰組の中で局中法度を設け、法度を破ると切腹とした。土方は敵を前にして背中をむけるのも、諦めることも絶対的に嫌った。

そんな彼を私は人間性を尊敬してやまない。私の中で本当の最後のサムライはこの人しかいない。
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by nishidaiku | 2006-06-15 21:03 | 幕末とか歴史

幕末めぐり その3 

京都には幕末の中心ともいえる場所であるとともに、新撰組の発祥の地でもあります
 前回の幕末の記事で少し書きましたが、ペリー(アメリカ)が開国を要求し、徳川幕府は不利な条約を締結させられます、(日米和親条約)なおかつ、天皇の許可をとりませんでした。天皇(朝廷)をないがしろにする行為に反発する各藩の志士達もいましたが、更に徳川幕府は強行姿勢をつらぬき、反発する者は厳しい弾圧を開始しました。100人余り今でゆう刑務所にいれました。世にいう『安政の大獄』ですね。そしてこれを実行した徳川幕府の大老 井伊直弼でありますが、結局世の中の流れをかえられず、暗殺されてしまいました。(桜田門外の変)この事件をきっかけに反幕府側は勢いをまし、京都で幕府の役人達に対して、『天誅』天にかわって罰をくだすということで、テロ行為を行います。岡田以蔵とかね。

そこで幕府側がとった対応として、京都守護職といわれる警察みたいのをおきます。そこで抜擢されたのが、今の福島にある会津藩なのです。会津は家訓で『徳川を守る』というのが代々残っていて、本当はいやだったらしーのですが、家訓の為京都に上ることになりました。のちに新撰組の生みの親になります。時期としては生麦事件と同時期になります。
もうひとつの対応が、徳川家茂将軍が京都に上るということが決まっていたため、将軍警護の任務をする役目の為、江戸にいる浪人を集めることになりました。それに参加したのが、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・藤堂平助・原田左之助等のメンバーです。この浪士組の募集は身分 年齢を問わないということで、一同大いに喜んだと逸話があります。  この時 近藤勇 29歳 土方歳三 28歳 沖田総司は19歳くらいです。
土方歳三はちょうど私と同じ歳ですよ。
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by nishidaiku | 2006-05-25 20:56 | 幕末とか歴史

幕末めぐりその2

とある日の日に、その足で開国資料館にいってきました。なにやら、幕末の写真展のようで、確かフランスの写真家が、当時の横浜を写真におさめていました。写真は今では考えられない、横浜の風景と人々を写していました。
当時横浜でおきた事件といえば、学生の頃、事件名は聞いたと思いますが、「生麦事件」今の生麦駅近辺でおきた事件ですが、そもそも事件の内容とは、薩摩藩主(今の鹿児島)が生麦を通りかかっていました。大名行列の時には、民は頭をあげてはいけない時代でしたが、それをしらないイギリス人が、何もしらずにあるいてきました。(ちなみに川崎大使に観光に行く途中だったそうです)そしてそれをみた薩摩藩士が、その異国人をきりつけ殺害してしまったのです。
開国したのが1854年。開国と共に徳川幕府は各国と日本にとってかなり不利な条約を締結させられています。そしてなにより、天皇の確認もとらず決めてしまいました。その徳川の弱腰に各藩で内乱がおこり幕末の動乱につながっていきます。治安はよくないみたいですね当時は。
話を戻しますが、生麦事件後イギリスより、犯行した人物の身柄の要求と多額の賠償金を請求されています。イギリスはフランス軍と共鳴し、今の港の見える丘公園の横にある、フランス山に駐屯しました。前にたまたま行ってみましたが、建物の廃墟と井戸が残っています。そしてビックリなのが、その後フランス山を日本が買い取ったらしいです。かなり日本は言いなりだったのですね。
資料館を見て点と点が線でつながりました。ちなみ過去に、「あーなるほどねー線と線が点でつながったよ」と発言したことがあります。ブヒブヒ。


 
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by nishidaiku | 2006-05-16 20:02 | 幕末とか歴史

この前の続き

ふぅー関内について今宵は語ろうかー私の友人の大蔵大臣に《ちゃんとブログやれよと》熱いエールがあったので、つかれた体にムチうってほそぼそと携帯で文字をうっている。まぁー前置きはこれくらいにして、
ペリー率いる黒船が来てから、急速に文明が入ってきたんだけど、横浜にも外国人が増えていったのよ、要はパスポートチェックするように、今の関内らへんに関所が設けられたんだけど、つまり今の関内より海側が関所の外側。当時の関所の内側だから関内だそうです。かなりはしょりましたが、だから関内より、海側に洋風の建物が数多く残っているのもわかるでしょ。
無理矢理新選組につなげますが、京都で鳥羽伏見の戦いの末、破れた徳川軍は横浜まで船で戻りますが、新選組の土方歳三は、横浜で洋風のスタイルに替えたそうです。

今は埋め立てられてわかりませんが、中華街らへんは川が流れてました。地盤が悪いせいか、結構電柱まがってますよねー・・・
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by nishidaiku | 2006-04-29 00:47 | 幕末とか歴史

幕末めぐり パート1

私の性分なのか、凝り出すとかなり自分の世界に入ってしまうくせがあり、まわりが見えなくなりかける。でも賭け事とか、車とか興味がないのは、全然なんですが、2年前くらいに幕末時代にどっぷりはまってしまったので、せっかくなので書く事にしました。

(誰も聞いてくれないので!!)

ちなみに下の写真は、旧東海道なんですが、今の東戸塚の近くにあるのを撮ってきました。

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そしてこれから、少し歩いたところに、古い門構えの家があります。
(住んでる方に許可をとりました。一応。)

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どうやらそこは、道場開いていたそうです。その時代まだ武士がいた時代なので、剣術を教える
道場が多かったと思います。そして1851年(155年前)に開設したそうなので、ペリーがくる2年前ということです。

おもしろい事にその記録を見ると、1858年に天然理心流 近藤 勇の名前がしるされているのです。つまり25歳の時に出稽古で東京の日野からあるいて来たのでしょう。

(京都に新撰組が有名になったのは18
63年頃なので)
私こうやってその場所とか、その人の歴史・人間性を調べるのがたまらない。勉強なるし。

横浜にもいっぱいありますよ。

たとえば関内の名前は由来は・・・これは今度にしよー。やべーネタがありすぎる。







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by nishidaiku | 2006-04-25 20:18 | 幕末とか歴史
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わたくしのお気に♪


by nishidaiku
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